Vol.46 2003年 5月号
4月11日から、久しぶりに、福岡教育大学に行きました。音楽科の4年生の選択授業です。最近の学生さんは、どうなのかなと、心配でしたが、基本的にはそんなに変わっていなかったです。まじめそうな、先生志望の女の子や、ブラバンに入っている、「これが音楽科?」というような、ごっつい男の子もいました。ただ、時代は変わったなと思ったのは、みんなコンピュータを持っていることです。それくらいは当たり前ということでしょうか。初回は、私の教え子で、現在楽器店でコンピュータの講師をしている先生にも来てもらって、コンピュータミュージック体験をしました。手回しオルゴールのソフトもあり、本物と比べたりしました。もうすぐ、教室にもいれますので、お楽しみに。今、小学校でも、いろいろパソコン学習やっていますが、音楽でもできるなと思いました。
奥野かおり
運動会での音楽を作っています
今、浅木小学校の1、2年生の演技の音楽を作っています。
先生方からご相談があり、ちょっと音楽と共通の単元がありましたので、リトミックのような教材を作りました。
音楽と体育はとても近いということがわかりました。 レッスンでもつかってみようと思っています。
2000年バックナンバーより
ローランド芸術文化財団助成研究報告書より
最後に、私事ではあるが、共同研究者 奥野澄子氏の急逝を報告する。
氏は、私の母であり、共同研究者であった。今年、6月9日にくも膜下出血により、急逝した。奥野澄子氏は、音楽療法学会発足と同時に入会、ミシガン州立大学の短期講習を受けるなど、研鑽を積み、1996年より浅木病院、デイケアにて、音楽療法のセッションを始めた。この他、自閉症児やアトピー児の個人セッション、健康講座におけるレクチャー、2001年より朝日カルチャーセンター小倉にて、音楽療法講座を担当していた。
私は、氏の専属ピアニストとして、共に活動してきたわけである。音楽療法の現場には、様々な場所が想定される。我々が行ってきたデイケアの部屋には、アップライトピアノがあったので、主にピアノを使ってきたわけである。今回の研究における、音楽データの作成は、ピアノのない場所でも、それを可能にする、という意図があった。だが、それと 同時に、音楽療法を行う指導者が一人の場合、伴奏を弾かなくても、データを利用できる、という メリットも挙げられる。
私は、音楽療法士ではないが、今後 氏の仕事を受け継いで行く上で、データを利用して、セッションを行うことになると思う。
母は、5月21日午前12時5分、倒れ、病院に運ばれた。奇跡的に 一命をとりとめ、翌日には、意識を取り戻した。だが、再出血の恐れが あるため、あらゆる刺激は避けなければならなかった。集中治療室とい う所は、実に無機質な音環境である。人工呼吸器や血圧測定器のセンサ ーの音、救急車の音...。私は、楽器を持ち込むことを、看護婦さんにお 願いした。23日、許可が出た。
持ち込んだ楽器は、シュタイナー楽器のライヤー(小さな竪琴)と、手回しオルゴール、レインステイックである。どれも、音楽療法で、使 っていた楽器である。これらの楽器は、どれも、リラクゼーション効果があると判断した。
使用許可で出て、最初に演奏したのは、オルゴールだった。担当の看護婦さんの中に、妊婦さんがいたので、お腹のあかちゃんにも聴かせるために、部屋に入って貰った。母は、そのお腹をさすりながら、にこにこしていた。静かな空間にオルゴールの音色が響き渡った。こんなに、この音が美しいと感じたのは、はじめてだった。看護婦さんも「お腹がボコボコ動いています!」と 喜んでくれた。
母は、いつも頭が痛いらしく、なかなか眠れないようだった。そんな時「こもりうたうたって」とか「音楽して」とか言った。私は、かすかな声で耳元で、ゆりかごのうたを歌ったり、ライヤーで、さりげないフレーズを弾いたりした。けして 刺激が強すぎないように、思い出の強い曲、感動しすぎるような曲は 避けた。
そうすると、母は「ああ、いい気持ち。」と言って、すーっと眠った。意識のある状態は10日間続いたが、その間、いつも音楽で母を慰めた。ここまで、音楽のもつ力のすごさを感じたのは、生まれて初めてだった。
そして、10日目、5月30日の早朝、母は再出血した。もう絶望的 だった。ほとんど 脳死に近い状態になった。それでも、私たちは、音楽療法を続けた。婦長さんは「きっと お母さんに聞こえていますよ」と言った。それは、誰にもわからないけれど、もしかしたら 聞こえているかもしれない、と私も思った。そう思って、毎日、いろんな曲を母に弾き、歌った。そうすることは、母だけでなく、看病する側の 人々、つまり、私自身を癒すことだった。看護婦さんたちも喜んでくれた。
今、巷にこれだけ音楽が渦巻いている現代社会で、病院という空間
はなんと、無機質な音環境なのだろうか。だが、現代医療の粋をきわ めた 脳神経外科という環境に、そんなことまで求めるのは、間違っ ているのか。そんなことを考えながらも、自分たちの考え得ることは、すべて やってみた。 身体が衰弱していく中で、病室にいろんなにおいもこもってしまう。
アロマセラピーも試みた。自宅のハーブも摘んで、枕元に置いた。
このようにして、母が死に至るまで、音楽療法を続けた。
音楽療法の現場は、実に多種である。こどもを対象にした現場、老人 を対象にしたディケアの現場、そしてホスピスにおける報告も多い。
今まで、私は、死に直接関わるような場所に接する機会は無かったのだが、今回 母を通じて、命がけの音楽療法を経験した。
冒頭で述べたように、音楽療法は、まだまだ これからの分野である。
どの病院に必ず音楽療法士がいる という時代は、いつ来るのだろうか。
でも、私は、確信している。音楽は心の薬であると。
そして、音楽によって救われる多くの人がいる、ということを。
文 責 奥野かおり